昭和45年3月11日 朝の御理解 【入力者: 末永 満】
御神訓
ー、神徳を受けよ 人徳を得よう
神徳を受けよ人徳を得ようと。神徳を受けるということなどういうことであろうか。御神徳を頂くためならどんなに(?)欲しい欲しいと思わない。どんな修行もさせて頂こうと。ね。もうそれはある意味においてですね、えー、(?)(?)(?)するかもしれません。お徳お徳明けても暮れてもお徳を受けることなんだ。いうなら、(?)私は根性がいると思うです。(?)どげなんこってもすると。(?)(?)(?)(?)というような生き方なんです。それに私、まぁ、いうなら、徳の亡者というて悪口を言うて人があるかも知れません。(?)(?)(?)。ね。神徳を受けよ。ところが世の中には、いや、お道信心者の中にはどれほど沢山のおかげの亡者があるか分からん。
今朝私はあること願わせて頂いておりましたら一層の船が館、館(?)(?)船頭(?)(?)こちらにやってきておる。ところがそのあまりにも急な長いなもんだから竿一本では押し流されておる。その船頭というのがここに三角(?)(?)。いわゆる亡者の姿ですね。どういうことだろうかと。いうなら私は、おかげの亡者と見た。ね。私はそのこれは信者だけじゃなくて教会でもです、ただその信者が沢山。信者が欲しい信者が欲しい沢山お供えをしてもらいたい。お供えをしてもいたい。立派な教会を建立したい建立したい。そのことに(?)を上げて信心しておる教会がどれぐらいあるか分からんと思う。これは私の夢ですと言うて言われることがどういうことかというと、私の一生一代のうちにそれこそ檜の香りがぷんぷんするような御神殿を造りたい。いかにもそれはみごとな立派なことのようですけれども。そのことを頂くために一生懸命修行をしよる。そのことのために一生懸命信心しよなさる。もし先生があるとするならこれはおかげの亡者ですよね。
私共そげなこと一遍ども思うたことなかったです、本当に。ね。私共はあの椛目でそれこそ人が助かさえすりゃいいのである。だから、さー、(?)いうなら御大祭たんべんには(?)広がってまいりましたけれど。もう広げようなかったから道のこっちにまでいうなら広げなければならんというほどしに広がって来ましたけれども。私は御神殿広げなかったでしょうが。思えれば何でもいわば私の信者時代拝みよったそのままのお宮だったでしょうが。ね。私はそういうことを願いとすることが神様の喜びじゃないと知ってるからです。だから、早速信者が本当に助かることのための場が広がやそれでいいのだ。それとても、ね、おのずと広がっていくもんだ。ここがいっちょこげなふうにあつかいたい。こういう広げたいといったような考え方を持ったことがない。
私は昨日若先生と話したことなんだけれども。お父さん一遍泉尾の三宅先生と対談をしてやりたいと。それは泉尾と言えばもう名実ともに日本一の教会。あちらもここへんにちょっと一年遅れて御造営が出来たが。あれはここのやっぱり四倍ぐらいかかった。三万、三億なんぼうかかってるというんですからね。確か四倍ぐらいです。それはもう本当にまぁ、日本一の御広前が建立された。あちらの御書物を読ませて頂くと、願って願ってということが沢山出てきますと同時に、拝める宮拝める宮ということがもう、私はここの意味が分からん。一遍聞いてみたいと思う。拝める宮と。いわゆる、泉尾の御広前教会というのは拝める宮だというわけなんでしょうか。何かそういう意味でしょうね。拝める宮と言うておられます。私は本当に拝める宮というのは、どういうもんの宮であろうか。
ここの御造営のここに石庭が出来ましてね。ここは私の天地の遥拝場(?)(?)。ここで朝夜天地を拝する場になっております。同時にあの石庭の一番あの梅の橋になりますか。私は五重塔を建立したいつもりだったんですあそこに。それはね、あそこが拝みの場一つのまぁ、私の祈念の場というような意味のことをしきりに頂くもんですから私はそのことを秋永先生に話しました。ここにどうどもあの、五重塔建ててくれと私は頼んどったです。
福岡に何かの用で参ります時に丁度(?)五重塔が丁度のその朝ですねあの 、御建設費としてえー、二万円お供えが来たんです。それは御建設費というよりもむしろその、五重塔(?)のいるもんですからそれを買うためのお金だったんです。ところが道中でですね、その石屋さん前を通った時に、はー、これは(?)五重塔の塔があるからこれを買おうと言うてあそこで四、五人連れがありましたが、秋永先生が私と一緒におりましてね、聞かせて頂いたら二万何千円かとこういうんですよ。それはちょっと私は二万円しかもって、二万円だから二万円にして下さいと私が言うたら、いいやそれは負かりませんと言うんです。負からんならこれはまだ本当の(?)(?)(?)と思ってからまぁ、私はそれだけ言ってあの帰らせて頂いてその次にですね、そこを通った時はね、五重塔の上の高いやつがないんですよ。それから何日かして大風が吹きました。その時その、大風の時に吹き飛ばして(?)。そして上の一番大事なところだけが吹き割れた。はー、あん時にまえんでいっちょんこれんかったのになというてまぁ、通ったけれどですね。これはそれでも五重塔はここにお金二万円きとるから(?)。そういう願いをそこんところを私はある意味で拝ませて頂く場として(?)秋永先生しきりにそれを申しました。そうしておるうちにですね、正義さんがここに手洗いを据えて自分ところにあの橋が、この頃北野の橋を作り直した時にです。そのあれは(?)というんですか。あれがあるけん、先生あれば一遍見て下さいと。あれでよかならあれをお供えしたいから両方にこの橋まで私連れて行ってもらいましたら今あそこにお手洗いがございましょう。あの私のこの梅鉢の紋の入ったお手洗いがあそこにございますよね。私の控えの横へ。そのですね、その橋桁に何と書いてあるかというと『にしのみやばし』と書いてある。もう私はそれだけでですね、正義さんもうこれに決まったと私申しました。というてお供えに頂いたのが現在ここに。丁度私がここを、私が拝むにせにゃならんというあれを神様のお知らせを頂いてから行きところが五重塔がそのようなことになってあそこにお手洗い、手洗いのあの四角いね。いわゆる、『にしのみやばし』と書いとるのがこちらへ出てますその皆さんごらんになった。
ですから、私まぁ、泉尾の教会が拝める宮拝める宮とこう言われるが、それをもし東の宮とするならです、九州のここなら西の宮だと私思うた。ね。かんながらなことだなとこう思うのです。ね。そして私思うんです。ね。拝める宮というならね、私は合楽の宮ぐらい拝める宮といえれる、いうなら、資格もっと宮はなかろうとすりゃ思います。なぜってね、いうならば、泉尾の、泉尾を相手にしちゃ相すまんですけれど、ね。先生の生き方であるところのそれこそ何十年間願って願って願い抜いてこられたという。
そしてこの有り難いお道の信心を世界万国にというので、世界各国の宗教者達の集まる会のを作られたりね。先日は、えー、とにかく外遊される時でも六回か七回行っておられまですね。先日、あの、広島で講演されたその記事物を読ませて頂いてなお、いよいよその私の思いというか念がいが強くなったわけなんですけれども。ローマ法に単独ね、面接をなさっておられますですね。そしてその先生の金光教の信心の先生が頂いておられる金光教の信心を伝えられたんです。ね。ところがですね、法王もそれに全面的共鳴をしてないのです。成る程私は、あれではね、興味をするはずがないと思うです。願って願ってという生き方でね、そのその願ってを世界万国にですよね。いわば、真の平和のための願いであるからいいようなもんですけれども。ね。いわゆる、いうならば、願って願って願い抜いて建てられたお宮のなのです、あの宮は。というふうに私思うです。それに引き換えてるならこの西の宮であるところの合楽はですね、願わずしてね、いうなら、(?)ここに建立されとるなんです。それことが言えいましょう。片や、願って願って願い抜いて建ったお宮それを、拝める宮とこう呼んでおられます。私の場合はね、願わずして建立された。ね。それはもう本当にこの田んぼの中にですね、とてもここに家を建とう思われないようにここは深田でしたから。と思うようなところにです、誰が見に来てもここに家を建つなんて思わなかったんです。ね。かんながらな時期に、かんながらな場に、このようないわば、お宮が建立された。ね。願わずして建立された宮ということを、それはどういう宮のつものであろうか。
御理解64節をごらんなさい。『この方は参って尋ねるところがなかった。氏子がおかげを受けて遠路ところを参ってくるが信心して徳を受けてみしのぎをするようになれ』。
みしのぎをするようになれとこうある。この方は参って尋ねるところがなかった。ね。教祖様はそのように仰っておられます。それを教祖の神様がこのように道を開いて下されこのように有り難いみ教えを残しおって下されしかも限りのない内容もつところのみ教えをいわば、私共のいわゆる、人間氏子が助かっていくことのために残しおって下された。
ここへ参って尋ねる、この方は参って尋ねるところがなかった。だから教会というところ、ね、金光教の教会のいわゆる、このお広前ということは勿論、信心の稽古場と、ね。とも又、御礼の場とも言われるわけですけれどもです。ね。私は参って尋ねて、尋ねて来る信者にです、的確に本当に教祖様のご精神をです、いうならば、天地の親神様のお心をです、本当に伝えて行けれるという教会こそがです、私はここんところだとこう思うんです。果たして、本当に教祖様の願いとされるところを伝えておるであろうか。ね。天地の親神様の願いとされておるところのことが尋ねて来る者、お参りをして来る者求めて来る者に与えられ教えておるだろうか。
願いなさい願いなさい一生懸命お願いしなさい。願って願って願い抜くのだと例えばいうようなことをもし教えたとするなら、どういうことになるでしょう。成る程信心にはその願いというものが強烈でなからなければいけないのですけれどもね。これではね、世界、世界万国にいうならば、通用しないです。世界の市場に通用しないです。と私は思うです。どうでしょうか。
ここの場合はどういうことになっておるでしょうか。ね。神様の神様の心を。金光大神のご精神。ね。それを端的に申しますとです、私ね、今年に入って言うておるのじゃない。私は二十年間説きに説き明かせて頂いたことはどこだとこう。ね。真の信心真の信心と言うが真の信心とはどういうことなのか。ね。天地が私共に求め給う修行を本気で合掌して受けて行けと。受けて立てということ。成り行きを大事にしていけということ。ね。そこから生まれて来るところのいわゆる、信心の賀びいわゆる、和賀心。
そういう例えば、ね、おかげは和賀心にあるのだと。もうこれを私は、ここ二十年間説きに説き明かして来たそしていよいよ、今年に入ってです、いよいよその和賀心時代が突入しなければならないギリギリの場にあるということを今年は私は強調しておるわけですよね。人間の本当の幸福というのはね、人間の知恵力どのように絞って絞ってもです、それは月の世界に行けれるようなことになってもです、そこの幸福への壁というものはです、心にあるんだということ。しかもその心がです、和らがなければね。賀ばなければそれは、ね、先日の教祖の原稿録から頂きますと、ね。祝賀の賀じゃと仰る。祝い賀ぶというそういう心がなからなければ人間の幸福は得られないのだ。そういう心にです、願わんでも頼まんでもおかげはありと教祖は教えておられる。いわゆる、天地書附。そのことがです、ね、教祖の私はね、難儀な氏子取次助けて下さるためのね、一大眼目である。ね。お道の信心のいうなら、お題目である。これを外してです、ね、これならね、世界万国に通用するということ。
願いなさい願いなさい難儀な問題なら一生懸命願いなさい。ならそれも信心の一分にあって又、なからなければなりません、祈念力といったようなことも。ね。けどもです、根本なところはどいうことかというと、ただ今申しますようなところ。ね。
和賀心におかげはあるのだから和賀心をまず、ね。そこで私が最近申しておりますように、和賀心学というものができ、出来なければならない。私は本当に残念に思うですね。この和賀心学というものがです、世界万国に通用するような言葉ですね、もっともっとその学問的な物な、なってです。今度の、万国博などに本当にそういうパンフレットのようなものでも配りたい。私はそれを本当にしきりに思うです。けどもそこまで至ってないことが残念だと思うです。ね。
昨日は変わったお供えが沢山ありましたね。昨日の月並祭に。昨日はね、(?)シナからいせいのお供えがあとった。壱岐からあの(?)(?)サザエが、あれお三方一台盛ってありましたですね。それそこ海を越えて来た物です。
私は昨日四時の御祈念をさせてもらうあることを祈らせて頂いておりましたら、繰り返し繰り返し頂きますのが『物元オールヨ』ということであった。(?)(?)昨日それを繰り返し繰り返し。私が今祈っておるということがです、そのことがです、ね、成就するということのための元はね、いわゆる、物元というのは物の元であろう、すべての元ということであろう。いうなら幸せの元ということであろう。その幸福の元というのは『オール』というは、すべてということだろう。すべての事柄ね。一つの願いが成就するということ。それが幸福につながるということのだ。ね。
あの物元というのは、皆さんもご承知のようにテレビでいつも宣伝してますよね。いわゆる、洗剤のことです。ね。それこそ真っ白に清めていくということなんです。ね。物の源。ね。いわゆる、幸福の源はです、それこそ洗剤じゃないですけれども、汚れに汚れたいうならば、私共の心がねきれいに清めれるということにすべての元があるんだと。幸福の元はこれなんだと。それをです、あの物元オールの宣伝を見るようにね、それこそ七つの鬼にに発展していこうとする宣伝なんですよね。
地球上の総人類の隅々に至るまでですね。この例えばね、人間の幸福というのはいよいよ自分の本心の玉磨いて磨いて磨いていくこと。そこから生まれて来る和らぎ賀ぶ心。それが人間幸福の元いうなすものなんだと。これならば、私も(?)世界もう万国に通用すると思うです。教祖様はそういういうならば、素晴らしい大精神をですね、話にして残しておられしかも毎日尋ねて来る者にはそのことを説いて説き明かさせて頂くところに沢山のみ教えがあるのだと。願え願えなんて教え、教えておられないということ。おかげは和賀心にありと教えておられるということ。ね。それはね、願って願って願い願い抜くということによっておかげを受けて私共もまぁ、来たわけですし、又、受けた、あー、受けてまいりましたわけです。
あの、昔というが、まぁ朝鮮がまぁ日本国と(?)時代。朝鮮にキンチヨウという酒がありました。とても有名な酒でした。大きな(?)。それからお酒をなさっておられる。大変なハーブリでしたね。一時はなだの酒に対抗して東京の、東京の(?)のですね、(?)(?)なかいさん達にキンチヨウの前掛けを全部はめさせたちうんですか。本当に(?)酒に対抗ほどしのまぁ、実力をもった酒でもあったし。まぁ、お店でもあったわけですがね。その当時言うておりました。キンチヨウが倒れたら朝鮮銀行が倒れると言っておりました。ですから朝鮮銀行自体がです、もうキンチョウを倒してはならんと一生懸命なんです。キンチョウが倒れたら朝鮮銀行が倒れる。ね。
だからね、願って願って神様にね、おかげを頂くということもですね、それはやはり神様が倒されたら神様がお馬鹿らしいですよねいうならば。貸し付けてあるんですおかげを。もう一生懸命願うもんだから願って願って願い抜くもんだだからおかげを下さってあるんです。ですから確かに倒れはしませんでしょう。倒しはなさらんです神様が。本当におかげを沢山頂いたらですね、倒せない神様としても。ね。
ね、ですから私はね、その借りてからですねそういうことで倒れないというそれではね、本当言うたらいわゆる、世界には通用しないです。世界に通用するものはね、私は和賀心学というものをです、本当に極めてその和賀心を自分の心に(テープ多少切れ部分)頼まんでもいうならばね、願わず出来たこのお広前でありお宮であると私は今日申しましたがです。ね。それはもう何と申しましょうかね。私、大きなことを言いようですけれども、なら三宅先生辺りのそれこそ日本一と言われるような先生のご信心を(?)ということは大変失礼ですけれども。もし私と対談されてです、あちらはいわゆる、日本一の大横綱になっておられるわけです。私はもうそれに対するまぁ、いうなら褌担ぎのようなもんだろうけれども。目指すところはやはりそこなんです。私も横綱を目指す。
昨日はお酒が沢山お供えになっとった中に日本一というお酒が二本お供えがあってましたね。あれはどこからお供えが来たとつのちて。あれはどげん酒じゃろうかち、したらあれ先生二級酒ですよち。もう他は一級酒特級酒だけあんな沢山あった中にその日本一というのは二級酒であるというところに私も今(?)ですね。成る程まだ成る程横綱を目指しておろうけれども現在ではまだ褌担ぎだということ。けれどもね、その願いとするところが一番素晴らしいです。ね。だからもし私と三宅先生が対談がもし許されるならです、大坪さんあんたが言うことが本当なこつばいと私に手を握って仰るようなね、時期が来る時には私は金光教はもう一大転機をなすと私は信じております。同時にそれがね世界に市場に通用すると私は思うです。
先生は今は、世界各国の宗教活動交わってね、信心によって世界を助けようといわゆる、世界総助けといったような言葉を使っておられますね。ところがね、願って願ってでは私は助からんと思うんです。いや、皆がそれをですね、合点しないと思うんです。信心とは願ってご利益を頂くことかと言われたらもうそれっきりです。ね。けども教祖様の(?)大精神でおありでなるところにおかげは和賀心にありということならばです、どこの誰だってそれこそローマ法だって金光教の信心は素晴らしいと共鳴されると私は信じます。
しかもその和賀心にはこのようなおかげが伴うのですよとそのおかげを見せて、ね。しかもそこをです、ね、本当に私和賀心学というふうに申しておりますがね。世界万国のどこにどの人にでも言うて聞かせて分かるようなね、(?)その難しいことが説き明かされる。そういうですね、例えば、チャンスをね私共願わせて頂いておる。ならそうふうに思うともうそれこそ夢は万国かけめぐるような思いが致します私は。ね。金光様のご信心に天地書附知らん者は誰もありません。ね。その、それ、それ程しにいや、(?)たんべんにいうならば拝んでおりますけれどもです、その和賀心学を治めようとしないです。いかる、いかなる状態になることがいうことをです、いわゆる、私はそれをですね、ここではね、尋ねるところがなかったと教祖は仰っておられる。ここへ参って来て信心して徳を受けてみしのぎをするようになれと。ね。神徳を受ける受けさせるということ。今日私は御神訓の中から申しました、神徳を受けよと。神徳を受けるということはどのようなことであろうか。ね。
昨日の夜は変わったおぜん、あのお供えの中に(?)のお供えを頂いた。これは万国博の今度(?)なんです。これは非常に少ないものらしいですね。昨日これをお供え頂いた。とにかく私の心に一段こう何か(?)(?)思いが致しました。正面に富士の山が(?)される。裏は桜の花なんです。見事な(?)出来ておりますがですね。本当にですね、これが世界万国に通用するお金。ここままが。ね。そういうおかげを頂くためにです、まず日本自体がです、国家自体がね、万国に信用を受けなければなりません。ね。いうならお道の信奉者自体が成る程お道の信奉者は違うといういわば、信用を受けなければなりません。それがどうでしょう。金光様のご信心ちうのはもうおかげおかげちてから。本当におかげ亡者ばかりだと、いうなら筋の立った宗教(?)それを必ずて、程度が低いと言うて非難するでしょう。
どんなに素晴らしい(?)です、願って願って願ってということは私は皆が共鳴しないと思うです。ね。けれどもその和賀心学もって説明(?)。和賀心になることね。だからここのお広前というのはそこが違う。いうなら、和賀心学をですね、私の頭脳の程度ではありますけれども、神様が次々とお知らせを下されてこのようにしてその学問を皆さん毎日極めておられるわけであります。
私は今日、いわゆる、例によって教祖原稿禄を開かせて頂きましたらこういうところを下さるんです。これは山本定次郎という方に教祖様が教えておられるお言葉です。
『生まれてからはものも教えるということになるけの。この懐妊中の心得が信心の元じゃからそれをするには家内中丸うて妊娠中の者を泣かしたり怒らしたりすることのないようにしなければならん。嫁と姑が中がよければ喧嘩が騒ぐということをいうが、なんでも仲良くせねばならん。六本の祓いにも静め静まることをつかさどるべしとあるが、家では家の言うて女がゆえのつかさじゃ。それが心得をようして子供の(?)(?)信心が出来る。人に笑われぬようにならねばならん。これなどを信心の目的にして子孫に伝わるような信心をせねばならん』と教えておられます。素晴らしいでしょうが。ね。
今日の御理解の内容をですね、具体的にですお互いのここの中に家庭の上に頂くということはこういうことなんだ。ね。これは例えば、(?)例えば子供とあの、(?)何かに教えておられるですよね。子供なかし、泣かしたり怒らしたりしちゃならん。私は本当にここんところをですね、今日の御理解にもうぴったりそのものを感じるわけなんです。ね。教祖はね、このようなことをです、例えばね、嫁と姑が仲がようなければ喧嘩が障るという。和賀心の根本なんですよ。ね。それはね、県外にも(?)いわゆる世界万国です。金光様の信心をさせて頂いたら嫁と姑があのように素晴らしい。親子の仲のいい当たり前。けども嫁と姑があのように素晴らしい仲が生まれていく家庭というものがまず根本なんです。それは反対だったらいわゆる、喧嘩が障るとまで言っておられます。確かにそうです。どんなにね、(?)(?)論じましてもです、家庭の中にこの和賀心がなかったらね、それはかえって、おかしい。いわゆる、人の悪口を言わなけらならない。ね。
そこんところをです、信心の目的にして子孫に伝わるような信心をせねばならんと教えておられます。どうでも一つ、私ね、私は合楽で皆さんがおかげを頂いておられる。ね。私はまぁ、大変失礼なことになったかもしれませんね。泉尾の先生の、又、あちらの御広前のことをまぁ、いうなら、駆け出しの合楽教会のことをまぁ、対象してお話したんですからね。けどもあちらがやはり拝まれる宮と言われるならです、私はもっと素晴らしい意味合いにおいて合楽のお宮こそ本当に拝める宮ではなかろうかと。なぜって願って願って建ったお宮ではなくね。願わずして建ったというところにね。私は本当の意味合いにおいての拝める宮。その拝める宮で皆さんが何のけいこをなさっておるかと。他行って教えてくれない。いわゆる、方便の願い捨て的信心しかなかったのにです、教祖様のご精神をです、いつもなら天地書附なら天地書附に焦点をおいてね。人間の幸福の土台であるところの和賀心。今年に入ったらそれをいよいよです、いわゆる、和賀心学というようなふうにしておりますことを皆さんに聞いて頂いておる。それを行じて行くところにただ今64節にありますように遠路のところを参って来るわ。信心して徳を受けてみしのぎをするようになれということになるのです。ここでお話を頂いてここでだからお徳を頂くお話頂いておるのだ。そういうところにお徳を頂くことにいうなら、徳の亡者にお互いがね、ならせて頂く。それは(?)ぐらいにまでです、その徳を受けることなるならどういう信心も修行もいとわないというような姿勢をもってするならならばです。
又、そのことをです、私が皆さんに伝えておると。ところがですね、例えばなら教会が沢山あります。その教会自身がです、さー、自分のお宮を建立することのためには、信者を沢山獲得することのためにある。にもし信心修行血道上げられておるとするならです、これはもう根本的に一つおかげを頂かなければならない。御広前じゃない。問題は人が助かることさえ出来ればである。なら本当の助かりというのはただ病気が治った災難が避けられたというのではなくて本当の助かりということはね、その一人一人の氏子が自分の心の中に和らぎ賀ぶ心頂くということなんだから。そのことを明けても暮れても説いて説いて説き明かさせてもらえれる私は教会であらなければいけないということなです。ね。そういう意味で私は合楽はおかげを頂いておると思うんです。ね。
一つ今日は64節をですね、参照に致しましてえー、神徳を受けよ人徳を得ようということをただ神徳を受けるということをに絞ってお話をさせてもらいましたですね。神徳を受けるということはどのようなことか。ね。その受けるためにはどのような有り方にならせて頂いたらよいか。しかもそれがです、ね、私一家ということだけでははくてね。まぁ、(?)万国にはせる。駆け巡る程しの信心の熱情をね、もってお道の信心を頂いていかなきゃならんというふうに思うのです。どうぞ。